ワーキングメモリ
「ワーキングメモリ」という言葉をご存じでしょうか。日本語では「作業記憶」と訳されるこの力は、お子さまの得意・不得意を把握するための知能検査(WISC)における大切な指標の一つです。よく「脳の中のメモ帳」や「脳の作業机」に例えられることが多く、生活面はもちろんのこと、学習を円滑に習得する上でも非常に重要な役割を果たしています。
ワーキングメモリってなに?
ワーキングメモリとは、さまざまな課題を遂行する中で、一時的に必要となる記憶のことを指します。これは単なる暗記の力ではなく、情報を保持しながら処理する「仕組み(メカニズム)」や、それを支える脳の「構造(システム)」を含めた一連の働きを意味しています。
教室の中のワーキングメモリ
学校の授業場面を想像してください。
活気がある、少し騒がしい教室の中で子供達が「掛け算の筆算」取り組んでいます。「ドリルの24、25ページを終わらせたらノートを提出してください。終わった人には新しいプリントを配ります」と指示が出されました。
この何気ない場面でも、子供達の脳内ではワーキングメモリがフル回転しています。まず「今取り組むべき課題」を意識し、次に「終わったら何をするか」というプランを最後まで覚えておかなければなりません。さらに、教室の騒がしさといった「妨害刺激(干渉)」に打ち勝ちながら、筆算という複雑な計算を進める必要があります。こうしたいくつもの工程を、一つひとつ成立させているのがワーキングメモリという構造(システム)なのです。
ワーキングメモリモデル
ワーキングメモリについての理解を深めるため、Baddeleyの複数分散モデルを紹介します。

中央実行系
ワーキングメモリの中核である中央実行系は、言語性ワーキングメモリや視空間ワーキングメモリの下位システムを統括する「制御機能」の役割を担い、注意の焦点化や配分を適切にコントロールしています。しかし、この機能は周囲の状況や、感情の変化や身体的コンディションに左右されやすく、寝不足や強い怒り、悲しみといった要因で容易に低下してしまいます。
中央実行系が正常に働かなくなると、情報の処理が追いつかなくなるオーバーフローや忘却が引き起こされ、結果として物忘れや行為のし忘れといった日常生活のミスに繋がります。子どもたちは、学校生活で日々ワーキングメモリをフル活用しています。お子さんが持っている力を十分に発揮できるよう、ご家庭では心身のコンディションを整えるサポートをしていただくことが大切です。
言語性ワーキングメモリ
言語性ワーキングメモリは、音韻ループとも呼ばれ、音声や文字情報を一時的に頭の中に留めておくための貯蔵庫のような役割を担っています。入ってきた音の情報を数秒間保持すると同時に、それを頭の中で繰り返し唱えることで情報の消失を防いでいます。
このシステムは、中央実行系からの指令を受けながら、言葉の理解や読み書き、暗記といった言語処理の基盤を支えています。容量には限りがあるため、保持できる情報の限界を超えると、聞いた端から内容を忘れてしまうといった現象が生じます。
視空間ワーキングメモリ
視空間ワーキングメモリは、視覚スケッチパッドとも呼ばれ、物の形や色、場所、距離感といった情報を一時的にイメージとして保持する役割を担っています。今見ている風景や頭の中に描いた図形を一時的に映し出し、操作するための作業スペースとなります。保持できるイメージの数や複雑さには限界があるため、情報が過多になると画像が乱れるように記憶が曖昧になり、場所の取り違えや図形の描き間違いが生じます
また、物体の位置や動きを捉える「空間的」な処理を担うため、身体の運動制御と密接に関わっており、自分の体の位置を把握しながら周囲の障害物を避けるといった複雑な動作を支えています。
IQとワーキングメモリ
IQとワーキングメモリは密接な相関関係にあり、IQが「知識の総量や応用力」を指すのに対し、ワーキングメモリはそれらを動かすための「作業スペース」に例えられます。近年の研究では、知能指数そのものよりも、ワーキングメモリの機能が学習の到達度や困難さを予測する上でより重要な指標であると考えられています。学習の困難度合いは、提示された情報をいかに効率よくワーキングメモリで捌ききれるかに大きく依存しています。
ワーキングメモリの容量が限られている児童が学習を円滑に進めるためには、その容量をいかに「節約」して使うかが極めて重要になります。情報を視覚化して記憶の負担を減らす工夫や、一度に与える指示を短く絞るといった環境調整を行い、メモリの浪費を防ぐことこそが、本人の持つ本来の知能を最大限に引き出すための鍵となります。
ワーキングメモリの成長
ワーキングメモリの容量は5歳から11歳の間に著しく増大し、15歳頃に成人と同レベルに達しますが、その発達には極めて大きな個人差が存在します。例えば、7歳児の中で下位10%に属する児童の容量は4歳児の平均を下回る一方で、上位10%の児童は10歳児の平均を超えています。これほどまでに情報処理の基盤となる容量が異なる子どもたちが、一つの教室に集まって一斉に学ぶのが学校という仕組みです。同じ教師の授業を同じ時間だけ受け、同じ量の宿題をこなしたとしても、情報の受け皿であるワーキングメモリの大きさが違えば、学習の定着度や成績に差が生まれるのは至極当然のことと言えます。
したがって、学習成績の差を本人の努力不足ややる気の問題として片付けるのは、科学的な視点を欠いた大きな間違いです。重要なのは、容量の少ない児童に対して努力を強いることではなく、前述の通りワーキングメモリを「節約」できるような具体的な支援を行い、個々の特性に合わせた学習環境を整えることにあります。